ピーター・バラカン

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ピーター・バラカンさん(中編)

前編に続く中編のインタビューは、日本でスタートした音楽業界でのお仕事のこと、念願だったDJの仕事、YMOの解散当時の音楽業界、そしてブロードキャスターという肩書きについてのお話などを伺った。(聞き手:近浦啓 / 写真:近浦啓 / 収録:2007年6月6日)

"違いを受け入れる気持ちがあればどうってことはない"

―ピーター・バラカンさんが初めて日本に来て、日本でのビジネスレターの仕事も含めてどういう印象を持たれましたか?

何もかも新しかったからカルチャーショックというべきかどうかわからないですね。日本語を勉強する過程で、日本については本などで読むことはありましたが、具体的な映像などの印象はテレビのドキュメンタリー番組が1つか2つかあった位で、日本に関する情報はそれほどありませんでした。驚きも多かったですけど、あまり具体的な先入観もなかったので、わりと素直に順応した方じゃないかと思っています。いちいちイギリスと比較したりするようなことをせず、ここは日本なんだ、全然別の国に来たんだ、という旅行する時の気持ちに近い感覚でいられたと思うんです。仕事をしながら生活を送っているわけですからね。
最初の頃は日本語の会話能力は全然だめでしたが、毎日全員が日本語をしゃべっている環境の中で過ごしていたから、慣れるのも早かったと思います。半年もたてば、かなり普通にしゃべれるようになっていたんじゃないかな。
生活の違いなんかはどこの国でもあるものですから、イギリスとの違いは、例えばスペインとかに行くよりは大きいかもしれないけれど、でもその違いを受け入れる気持ちがあればどうってことはないです。ただ、1年目はすごく冒険気分みたいにいられたと思うんです。慣れてきたら、どうしても「こういうところに関しては日本よりイギリスの方が自分の性に合うな」とかそういう不満に思う要素の部分の方が気になりだした時期がありました。2年目位に「もう嫌だ、もう帰ろう」と思った時は少しだけあったんですけどね。

―その時はシンコーミュージックでビジネスレターの仕事という形ですけれど、音楽業界に入ったということで次の仕事にもつながったのではないでしょうか?

僕の仕事は著作権関係の仕事だったんですけど、会社自体はいろんなことをやっていました。雑誌も出しているし、ロックバンドのマネージメントもしているし。もともと楽譜出版社なので楽譜のことが本業でしたけれど、ちょうどその時期に業務はすごく拡大していたんです。僕のところにも結局英語の知識が必要な仕事が何かあれば回ってきたりしていました。最初に「日本語ができるのは関係ない」と言われたのは嘘ではないだろうけれど、両方できるということで重宝してくれる人もいたんです。いろんなタイプの仕事の話が飛び込んでくるし。社内もそうだし、他からも。例えばレコードを出すときの英語の歌詞の聞き取りが必要になりますよね。僕はBluesが大好きだったんですが、ちょうどその頃Bluesが日本でわりと話題になっていたのでレコードがたくさん出ていたんですけど、正確に聞き取れる人がなかなかいなくてね。それができるということで、驚くほどアルバイトができちゃったんです。そのことでいろんなレコード会社の人とつながりができたし、また音楽業界というのはわりと狭いところですから、いろんな人とすぐ知り合いになってね。それで僕が夢の仕事と思っていたラジオのDJのオーディションの話もいただきました。79年にオーディションには一度失敗したんですが、80年に、構成作家をしている友達からオーディションの話をもらって今度は決まったんです。1980年に初めてラジオ番組のアシスタント的なDJをやることができて。ものすごく嬉しかったですけどね。

―その時は選曲もされていましたか?

全くできなかったです。させてもらえなかった。それが一度すごくフラストレーションになって、当時まだ結婚前だった、今の妻に「ラジオの仕事やりたかったけれど、この形じゃつまらないからやめようかな」と愚痴をこぼしていたんです。そうしたら「せっかく自分の夢の仕事を少しでもできるようになったんだから、ここで辞めたら二度とチャンスはないかもしれないよ。ここが我慢のしどころなんじゃない?」って結構厳しく言われてね。もうちょっと我慢したら、2年目に入って1曲だけ毎週選曲させてもらえるようになって。それから台本から少しそれる話もできたかな。でも、いま思えば、自分もまだ慣れてないし台本がなければ、じゃ何をしゃべるか?といった風で、上手に話せたものじゃなかったと思いますよ。その番組は2年で終わって、次に別の番組の話が来ました。当時シンコーミュージックを辞めてYMOの所属事務所で働いていたんですけど、その事務所に矢野顕子が所属していたんです。その次に来た番組の話というのが、本当は彼女がDJの番組だったんですけど、彼女は忙しいので選曲を全部自分でやったら大変だから僕がそれをお手伝いするという役割だったんです。土曜日の深夜の番組でした。深夜だから聞く人も少ないし自由に出来ました。選曲はね、最初は2人でディレクターと相談しながらやっていたんだけど、あっこちゃんがやっぱり音楽の本業の方が忙しいから途中で毎週の番組の収録もきついということになって。彼女がおりて最終的に僕1人でやることになったんです。自分の選曲で思う存分自由に楽しくやっていましたね。

"YMOが解散した途端にみんな消えてしまった"

―その頃にYMOのアメリカとの交渉などの仕事もやられていたんですよね?

そうですね。彼らのレコードをできるだけ海外でも発売できるようにしようということで、彼らの楽曲の著作権関係の仕事をしていました。歌詞も手伝っていたし、相変わらず英語の知識が必要な仕事は僕の所に回ってきたという(笑)。

―英語の歌詞だったら発音指導もやられていたんですか?

ええ。発音指導もやっていました。結構大変でした(笑)。日本語という言語と英語という言語の発音の違いがこれだけ大きいのかと思い知らされましたね。自分が日本語を勉強をしていた時は特にそういったことを考えず、できるだけ自分が上手に発音しようと努力しているだけだから、あまり分析して考えたことなかったんです。

ピーター・バラカン

いざ、自分が発音指導をしようと思ったら、本当に難しい。普段から英語を上手に話そうと努力している相手だったら別かもしれないけど、そういう勉強を特にしてない人には難しかった。僕は最近、そういうことに関する本を書こうと思っているんですけどね。

―あの時代のYMOを、僕はリアルタイムで経験できなかったんですけれど、後々、解散した後にYMOを聞くようになって、この時代にこういう音楽があったんだと思いました。83年に解散したんですよね。もしこの83年にYMOが解散しなかったら日本の音楽シーンってもっと変わったんじゃないかな、ととても思うこともあったんですよ。

そう思いますよ。彼らが活動して最初の2年位は僕は関わっていなかったんですね。

YMO

一番大きく売れた「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のあたりも。僕が関わるようになったのはその1年後位、後半の頃の売り上げ的には少し落ちていく頃なんだけれども、彼らの影響を受けた若者がどんどんバンドを作っていました。ちょうど60年代のイギリスと同じように、次々と新しいアイディアを持った若いバンドがもの凄い数で出て来たんですよ。その音楽シーンの活気もすごかったし。好みということは別として新しいことをやろうというバンドが後を絶たない形で出てきたんですね。しかし、83年に解散すると途端にみんな消えてしまったという感じで。ちょうどその前、81年にボブ・マーリィが亡くなった時のような。

―その時のシーンと似てますよね。

ボブ・マーリー

ルーツレゲエのもの凄い元気なシーンが、ボブ・マーリィが亡くなった後、シュンとしぼんでしまってね。わりとその後すぐに、ダンスホールという全然違うタイプのレゲエに移行していくんだけど、日本のYMOの解散の時のシーンも同じように跡形もなく消えてしまったような、そんな印象がありましたね。

「ブロードキャスター」という肩書き

―僕が高校生の時、ちょうどニルヴァーナのカート・コバーンが亡くなった時だったんです。その時も同じように真空状態のような感じになって、そこですかっと穴があいた所にオアシスがデビューして、新しいブリットポップの動きも勢いよく出てきたんですけど、そういう連鎖反応というか、音楽業界ってすごくそういうことがあるなあと思いました。

そうですね、やはりメディアの注目を一番浴びる中心人物がいるかいないかで、そのシーンの大きさと注目度が変わっちゃいますからね。

―その頃から、ピーターバラカンさんはご自身の肩書きをブロードキャスターとおっしゃられてますけれど、今振り返ってみて自分は今「ブロードキャスターだ」と思えた時期っていつ頃だったんでしょうか?

すごく単純なことだったんです。僕は音楽関係の仕事しかしていなかったのですが、YMOの事務所にいる頃に、並行してラジオの仕事もしていいと社長が言ってくれていて。最初はラジオ、途中からテレビにも出るようになって。全部音楽番組だったから肩書きを聞かれたら「ディスクジョッキー」とか、あるいは肩書き嫌いだから「音楽愛好家」と言ったりしていました。今度は88年にCBSドキュメントという音楽と関係ない番組の仕事が始まって。その番組に出たらディスクジョッキーも音楽愛好家も勘違いされるかなと思って、困った事態になったなあ、と(笑)。
肩書きが日本はどうしても必要となっちゃうから、じゃあ何と言ったらいいか困ってたんです。やっている仕事もその時はほとんど放送の仕事になっていたんですが、英語ではねBroadcasterという肩書きはあります。つまりライターは活字媒体で生計を立てる人の事を言って、その活字媒体を放送媒体に置き換えたらブロードキャスターになるんです。それで、これでいいと思って。わりと軽い気持ちで今度からはブロードキャスターにしようと思った・・のだけれど、日本ではこれが全然通じないから(笑)。「何ですか?それ」って未だに言われますよ。そうこうしてるうちにキャスターという和製英語が出来てしまって。

―またちょっと意味合いが違うものとしてとらえられてしまいますよね。

キャスターと呼ばれたり、黙ってると望みもしない肩書きを強いられてしまうことがあるから、しょうがないからブロードキャスターで通し続けていますよ。

流されるように生きていくことの美徳

―ブロードキャスターという職業とバラカンさんの好きなことというのは、ぴったりと重なっているんじゃないかと思います。それは、おそらく大半の人が「好きなことを仕事にするにはどうしたらいいだろう」と悩んだり、考えることだと思うんです。今バラカンさんの話を聞いていても、これまでいろんな本やインタビューを読んでても思うんですけれど、すごく漂ってるように見えて、実は自分のその行く方向を無意識的に見定めているのかなって思うところもあります。

僕もある時ね、振り返ってみてそういう風に見えてきたところはあるんです。本人は最近まで意識していなかったんですけどね。大学生の時にね、「老子」の英訳の本を読んだことがあって。確かね「流されるように生きていくことの美徳」みたいなものを書いているところがあったと思うんです。微妙にそれが印象に残っていて。

最上の善は、たとえば水のようなものである。

老子—中国古典選(朝日新聞社)』福永 光司

―逆らうんじゃなくて。

老子

そうそう。例えば川の中をずっと泳いでいるとか、流れているということを考えると、流れに逆らうんじゃなくて流されながらもなんとなく自分の進む方向を意識するものじゃないのかなあ、と。僕の生き方はそういうことを意識した訳じゃないんだけど、結果的にそうなってたかもしれない。もしかしたらそういう読んだ本が潜在意識の中に入っていたかもしれないし、何とも言えないんだけど。西洋的な考え方というのは人間の意志というのはまずある、と。でも自分の意思を無理に通そうと思うと災いを呼ぶ結果も少なくないと思うんです。

―バランスを崩しちゃいますよね。

そうそう。やっぱり自然の流れっていうのは全てにあると思う。自然の流れに逆らうということは人間にとって一番disasterにつながることが未だに多いと思っているんです。これは母の影響もあるかもしれないね。自然を尊敬するというか、そういう価値観で育ちましたから。(次週、後編に続く)

撮影協力:Cafe Apres-midi(カフェ・アプレミディ)
今回撮影に協力して頂いたカフェ・アプレミディは音楽プロデューサーとしても有名な橋本徹さんがオーナーを務める渋谷の人気カフェ。ピーター・バラカンさんもよく訪れていらっしゃるそうです。ゆったりと配置されたソファ、BGM、心地よい時間が流れています。
〒150-0041 東京都渋谷区神南1-15-7 5F
Phone / 03-5428-0510
Open / 12:00-25:00 (日~木) 12:00-28:00 (金・土・祝前日)

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