伊達公子

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伊達公子さん(前編)

小学校1年生からテニスを始め、テニスの名門高校園田学園高校を卒業と同時にプロテニスプレーヤーに転向。95年にはWTA世界ランキングで4位にまで登りつめ日本の女子テニス界の歴史に名を残している。引退後も子供を対象にした「カモン!キッズテニス」を開催し、テニスの楽しさを伝えている他、テニス解説、コラム等の執筆、JICAのオフィシャルサポーターなど多方面で活躍している。自らのことを非常に自然体に受けとめ、語り、多くの人を元気にさせる笑顔に、伊達さんの朗らかさや心の豊かさを感じるインタビューとなった。インタビュー前編では、テニスとの自然な出会いのお話、楽しくてしょうがなかったというテニスクラブでのレッスンの日々、その後に大きく影響を与えた高校の進路選択、民間テニスクラブでのテニスと高校テニスとの違いや当時の寮生活のことまで様々なことを伺った。(聞き手:近浦啓 / 写真:近浦啓/ 収録:2007年10月25日)

"時間の経過と共に、いろんな遊び場がテニスコートに集約されていった"

そのテニスクラブは、コートが二面だけの小さなクラブでした。ちょうど家と学校の間にあったので、学校の帰りにクラブに直接行くこともよくありました。とてもアットホームな雰囲気で、経営していたご夫婦を私は「おじちゃん」「おばちゃん」と呼び、「おばちゃん」にテニスを教えてもらいました。私にテニスの楽しさを最初に教えてくれたのはこの「おばちゃん」なのです。

キッズテニス —「好き」を見つける「楽しい」を育む
(岩波アクティブ新書、伊達公子 著)

キッズテニス

―今回まず聞かせて頂きたいのが、伊達さんの子供の頃のお話ですが、初めてテニスと出会った時というのは何歳の頃ですか?またそのきっかけを教えてください。

6歳です。京都市の北区という所に引っ越した時に、自宅の近くに民間のテニスクラブがありました。両親が健康のために入会してみようかと行き始めたところに、ついて行くようになったのがそもそものきっかけですね。

―では、ご両親がテニスを「させる」という事じゃなかったんですね?

全く違いました。楽しむために通っていた両親に私がくっついて行っていただけでした。両親が体を動かすことが好きで、父親は山が好きだったので、時間があれば家族揃ってハイキングや山登りに行ったりしていたんです。身体を動かす頻度は多かった家族だと思いますね。

―その頃は女の子だとバレーボールやいろんなスポーツがあると思うんですけれど、テニスと出会った時にこのスポーツがすごく好きだという感覚はありましたか?

最初は両親がプレーしている横で待っているだけでした。だんだんボール拾いやボール遊びをし始めて、さらに置いてあるラケットを持って見様見真似で打ち始めた。それを見たクラブのオーナーが「やらせてみたらどう?」と親に言ってくれたんです。
 今ほどテニススクールがなかった時代でした。しかしそこには小学生を何人か集めたスクールの初期段階のような時間があったんです。クラブの方からお誘いがあって、やることにしました。あまり習い事と言う意識がなかったんですよ。学校が終わってグラウンドや公園に行って遊んだりする感覚で、たまたまその場所が一つ増えてテニスコートという場所もある、そういう感覚だったんです。

―毎日練習に励むというようなハードなものではなかったんですか?

最初は全くそういうことはなかったですね。好きな時に行っていました。だんだんレッスンの日は定まってきたんですが、それ以外の日も両親が行く時にはついていき、ボールを打ってもらっていました。しかもテニスクラブのすぐ横は遊ぶことのできる山。だからテニスコートに行くのは「遊びの延長」という感覚でしたね。時間の経過と共にいろんな遊び場がテニスコートに集約されていったんですね。

"「身体を動かす」という習慣がもともとの生活の中にあった"

―すごく自然の流れだったんですね。

すごく自然でしたね。無理矢理両親がやってみなさいと言った訳でもなければ、私がやりたいと言って行きだした訳でもなかったですし。「身体を動かす」という習慣がもともとの生活の中にあったことも自然にテニスをすることにつながる大きな要因だと思っています。

―テニス自体が「楽しい」という感覚もすでに芽生えていましたか?

小学生の時のそこのクラブはとてもアットホームでした。とにかく楽しくて楽しくて365日、暇があれば通ってましたね。学校と家の距離もとても近いんですが、学校とテニスコートの距離はもっと近かったんです。本来なら集団登下校などがあったんですけど、学校の許可をもらって、家に帰らずにそのままテニスクラブに行っていたんです。帰る時間も惜しんでいたんですね。それ位楽しかった。

―そういったところは、学校の理解もあったんですね。

今でこそ、地域連携という言葉を耳にすることも多くなりましたけど、当時はあまりなかった時代です。でも意外と地域性というものもありましたし、スポーツを一生懸命やっている子供達に対して理解があったように思います。

"あまりにも周りにいる人のレベルが高いので、
「私は私」という気持ちだった"

―その後、クラブを移られたきっかけというのは?

引越しですね。滋賀県に住んでいた祖母の近くに引っ越すことになったんです。これまでのクラブは遠くて通えなくなってしまいました。しかし滋賀県はテニスがそれほど強い県ではなく、テニスクラブ自体がなかったんです。たまたま見つけたのが京都の山科にあるテニスクラブ。そこなら何とか通える場所だったので決めました。
 そこがたまたま世界を目指すような選手を育成するようなクラブだったんです。求めた訳ではなくたまたま通える場所ということで選んだんですけど。

―そうなれば、優秀なコーチの方もたくさんいらっしゃったんですね。

偶然の出会いですよ。中学生の間はそこでやっていました。

―最初にテニスを始めたころに比べて、その時になると断然練習量も多くなっているし、試合も重ねている時期だと思うんですけれど、テニスに対して漠然とした将来のビジョンなどはありましたか?

いえいえ、なかったですよ。実は練習量は減ったんです。以前と違って家もテニスクラブも学校もそれぞれに距離があったんです。時間がもったいないので、学校の許可を得て私は直接駅へ。テニスの道具は母親がバイクで駅まで持ってきてくれて、お互いの荷物を交換してはテニスクラブへ行くという形で通ってました。それでも時間はかかってしまう。だから練習量は減りました。ただ、やることはもちろん成長と共に密度の濃い内容にはなっていましたね。

―そこで技術的なことは変わりました?

変わりました。そこは攻撃的なテニスを教えていて、目指すところはプロになるというところでしたし。ただ私はそこまで意識が高くなくて、楽しくできればいいなという気持ちでやっていました。反対にコーチからはっぱをかけられるようなことが多かったですね。

―伊達さんのプレースタイルの中心的である「ネットプレー」というのはそこで身についたんですか?

土台が出来たのはそこですね。それまでは基礎の基礎ばかりをやっていたんですけど、ちょっと大げさかもしれないですが、そこでは8割位の時間をネットプレーに費やしていました。残り2割がストローク。今までやってきた練習とは全く逆転しましたね。

―その中でも最初に感じてたテニスに対する「楽しさ」というのは継続してましたか?

継続はしていました。ただ周りにいる人のレベルがあまりにも高いので、追いつけ、負けないように頑張らなきゃ、というよりは「私は私」という気持ちだったかもしれないですね。

―性格的に負けず嫌いの子供ではなかったんですか?

負けず嫌いでしたね(笑)。ただ、当時はあまりにレベルが高すぎて。「なにくそ!」というような気持ちにはならなかったですね。ただ好きは好きだし、一生懸命やっていました。

「自分を追い込む環境」を与えてくれた高校テニス

―その後、中学から高校に進学する時にそのクラブを辞め、兵庫県の高校に進みましたね。それはきっかけなどあったんですか?

高校進学に際して3つの選択肢があったんです。1つは滋賀県の高校に行って民間のクラブに通う、もう1つはテニスがそこそこ強い京都の私立高校への進学。当時テニスクラブのみんなが通っていた学校で、そこだと部活とクラブの両立が出来たんです。練習はある程度クラブでやって、試合は学校の方で出られる形。もう一つ浮上したのが、推薦をいただいた兵庫県の園田学園女子高校に行くという選択肢。テニスの強い高校です。初めはずっと民間テニスクラブで育ってきていたので、「学校テニス」に抵抗がありました。推薦をもらったことでテニスの名門校に行くという選択肢を考えるようになったんです。当時、親友の子が通っていた学校ということもあって、また、寮生活への憧れもありましたし(笑)、最終的に兵庫の園田学園女子高校に進むことに決めたんです。

―中学から高校くらいの世代だと、誰しも実家を出て寮生活とか一人暮らしとかに憧れる気持ちを持っていると思うんですけど(笑)、実際の生活はいかがでしたか?

大変でしたね。6畳の2人部屋で押入れが一つあるだけでした。布団の頭上に洗濯物を干すロープがあって、遠征から帰ってくると洗濯物が多くなるので、寝ている時に落ちてきたりするんです。それで夜中にまた洗濯ロープを張って(笑)、なんてことも経験しましたよ。
 家にいる時は、練習が終わって帰ってきたらご飯が出来ていた。もちろん寮でも食事はあるんですけれど、味は落ちますし。自己管理もしなきゃいけない、寮とはいえ身の回りのことを自分でやらなきゃいけない。今まではなんて楽だったんだろうと初めて気づきました。やっぱり精神的な部分で成長はしましたけど。

―民間クラブから学校の部活へと活動の場が変わったんですが、全く雰囲気も体制も違うと思います。伊達さんはそういった点は苦にならなかったですか?

もう苦でしたね。先輩・後輩という上下関係に慣れるのも大変でした。
民間のテニスクラブ、特に私が通っていたのは自主性に任せるクラブだったので、強くなりたいと望んでいる人にはいろいろな提供や助言をしてくれるんですけど、意思のない人には何も出さないというようなところでした。それが学校のクラブはある程度、強制というか、枠の中でやらなければいけない。時間をとにかく長くやらなければいけない。違和感はずっとありましたね。

―その点について著作の「キッズテニス」の中でとても印象的な箇所がありました。

ただ、今振り返ってみると、違和感を感じていたことの、必要性や意味合いが理解できます。あの時期にあの学校で部活動としてテニスができたことは大きな意味があったと思っています。
(中略)
それに、技術的な側面から見ても、民間クラブで好きなことばかり練習するのと違って、学校では、時間がたくさんあるので同じことの繰り返し。実はこの繰り返しがテクニックを覚えるのに最も大切なことなのです。

キッズテニス —「好き」を見つける「楽しい」を育む
(岩波アクティブ新書、伊達公子 著)

―というところです。その当時はやはりこういった「良い点」に気づかないものですか?

気づかないですね。先に苦痛なことだけが大きく自分の中に残ってしまっていました(笑)。

―技術的な面だけじゃなくて、例えば人との協調性とかそういったことも学べる場所だったということですよね。

そうですね。学校テニスでは、民間のクラブでは学べなかった、団体戦で戦う中で強まる仲間意識や勝つことに対する執着心を学べました。もちろん長くやればいいというものではないんですが、自分の成長過程で筋力がついてくるこの時期にたくさんの時間を費やせたことは、体力やスタミナを作るのにすごく大切でした。自己管理力が強いかどうかは人それぞれだと思うんですけど、追い込まなきゃいけない、頑張らなきゃいけない時期ってスポーツをやっていると必ずあって、自分の意思だけでは足りない部分って絶対あると思うんです。それをある程度環境でカバーできたのが高校生の時だったのかなと思います。(次週、中編に続く)

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