浦嶋りんこさん(前編)
DREAMS COME TRUEの吉田美和さんとのユニット・FUNK THE PEANUTSでの活動や、久保田利伸さんなど数々のアーティストのツアーやレコーディングなどにバックグラウンドヴォーカルとして参加されている浦嶋りんこさん。近年はミュージカルでも活躍の場を広げ、その深く包み込むような歌声で私達を魅了している。明るく、飾らない言葉で、楽しいことも辛かったことも、時に笑い飛ばしながら語る浦嶋さんの言葉に、熱いパワーをもらえたインタビューとなった。
インタビュー前編では音楽の道に入ることになったきっかけ、アマチュアバンド時代のお話、久保田利伸さんとの出会いや久保田さんのバッキングコーラスをすることとなった当時のお話、これまでの道のりの中、自分の存在価値と向きあうことや不安との闘い、浦嶋さんなりのバランスの取り方など、率直な言葉で語って下さった。(聞き手・写真:近浦啓(クレイテプス)/ 収録:2008年6月9日)
"20歳位になるまで音楽にはさほど関わらなかった"
―浦嶋さんがどんな風に音楽と出会って、音楽の好みを形成していったのか、とても興味があります。小さい頃のお話などから、聞かせていただけますか。
ミュージシャンの場合は、家族環境の中に何か音楽に携わるきっかけがあって、小さい頃から音楽が身近にあったという方が多いと思うんですが、私は全然そういったことが無かったんですよ。お家には家具調のとても大きなステレオがあって、そこには父が持っている軍歌のLPと、姉がフランス語を専攻していたので、サルヴァトール・アダモのLPがあった位なんです。薄っぺらな音楽ヒストリーですよ(笑)。
―では、子供の頃はわりと影響を受けずに育ったという感じですか?
そうですね。小学校の頃でも、周りが「ビートルズが良い!」と言っていても、「英語だしわからないわ。」と言っている感じ。中学に入って、バンドを始める友達がいても、「バンドなんていけてないじゃん。」と思っているタイプでした。だから20歳位になるまで音楽にはさほど関わらなかったんです。それで20歳を過ぎた頃に、「君はルックスが、シンガーとしてすごくいい。だから形から入りましょう。」と誘ってくださる方がいて、だから形から入ったんです(笑)。
―歌が好きということではなくて?
ええ。バンドもやっていなければ、カラオケもその当時はメジャーな遊びではありませんでしたからね。その誘ってくださった方が、自分のところのバンドのヴォーカルが辞めるからと、後任を探してらっしゃったんです。それをきっかけに入った形です。最初は「人さらい」かもしれないとか、バンドの練習を見に行くと大変な目に遭うかもしれないなんて思ってましたよ(笑)。
"まさに「形先行型」だった"
―そのバンドはジャンルはどういった音楽だったんですか?
ソウルバンドでした。ソウルといっても、ヴォーカリストの歌いたいジャンルを、他のメンバーが演奏する形で成り立たせていました。
当時、「好きな音楽は何?」と聞かれても、なかなか説明できませんでした。曲は聴いたことはあるけど、それが誰の曲だかわからないんです。ちょうどディスコ世代だったので、ディスコで聴いた、踊れる音楽が好きな音楽で、蓋を開けてみるとそれがチャカ・カーンだったり、マイケル・ジャクソンだったり。そういうところから入ったので、初めはコピーバンドです。チャカ・カーンのコピーをしようということになったんです。素人なので、当然彼女ほどの音域も出なければ、ああいった歌い方も出来ないんですけれど、「コピーすることはとっても良いこと。一生懸命コピーしなさい。」と言われ、一生懸命コピーして歌いましたよ。知らないということは凄いことで、「これはコピーしようと思えば誰でもできるんだ。」と思ってひたすらやっていたんです。いまやメジャーになった合歓の郷の音楽祭で第一回のグランプリも頂きました。それが音楽との関わりの最初の入り口だったんです。
当時は周りにいる方達に、「君、あんまり喋っちゃいけないよ。音楽のことを何も知らないと思われるとバカにされちゃうから、知っているようなフリをしておきなさい。形はいけるんだから」と言われてました。ですからまさに「形先行型」だったんです。
―コピーするにもソウル音楽って難しい部分が多かったんじゃないですか?
そうですね。バンドリーダーの方は家業の床屋さんを継がれていたんですけど、ご自宅をスタジオとして開放して、たくさんの多種多様な若手のバンドを育てていたんです。スイングもあり、ビッグバンドもありました。いろんなバンドを作り、その中で時にはメンバーの組み合わせを変えてやってみたり。そこで私もいろんなジャンルの音楽、バンドを経験できたんです。ディキシーランド・ジャズや、ジャズ、ソウル、アンドリュース・シスターズのコピーバンドもしていました。そういった経験を経て、ソニーミュージックオーディションにも出させて頂いて、準優勝をもらい、初めてメジャーデビューの話まで至ったのもそこでのことでした。ただ、その当時の私は、同世代との子達とのバンドの関わりというものを知らないままだったんです。そんな時に、隣の愛知県の名古屋でバンドをやっている女の子から「女の子だけのバンドだけど、一緒にやらない?」と誘われたんです。そこで初めていわゆる「アマチュアバンド」の体験をしたんです。みんなで機材をかついで、いろんな所を周って・・・初めての経験でした。
―その時にアマチュアバンドでやられていたのはどういった曲だったんですか?
名古屋でやった時はオリジナルの楽曲でした。でもソウルっぽい音楽をやりたくて、それに近づきたいと思ってました。
―そこから久保田利伸さんに出会われるまでは長かったんですか?
"たまたま久保田さんがステージを見て、声をかけて下さったのが出会いのきっかけ"
それからは六年位かかってます。
名古屋でのバンド時代は、やはりデビューが一番の目標になりました。愛知県のバンドだったので、最初は関西をターゲットにしていたんです。次第に、関東を目指そうということになり上京し、その後レーベルも付き、事務所も探せて、メジャーデビューの前段階まで東京で頑張っていたんですけれど、ある時空中分解しちゃったんです。いろんな話がなし崩し的にだめになりました。最終的に「東京に残るのか、田舎に帰るのか」という決断をすることになり、結婚する子もいれば、東京で就職する子もいて、みんな散っていきました。私だけがぽつんと残ってしまったんです。その時に「ファンクバンドだけどどう?」と誘ってくれた人がいたんです。ファンクは私にとってまだ未知の分野でした。Pファンクのコピーバンドで、とにかく大人数だったんです。
東京に音楽友達がいなかったので、そのバンドは楽しかったですよ。そして、そのバンドで活動している時に、たまたま久保田さんがそのステージを見て、声をかけて下さったのが出会いのきっかけだったんです。
"まさか、誰かが自分をピックアップしてくれるなんて"
―そうなんですか。それは浦嶋さんにとっても大きな転機でしたね?
もちろん大きかったですよ。当時はキーパンチャーのアルバイトもしていたんですから。そんな中、久保田さんに声をかけて頂いて、私の中では「メジャーな方が見てくださった」ということだけでもすごく大きなことでしたし、まさか、誰かが自分をピックアップしてくれるなんて思ってもいませんでした。
でも実際に久保田さんから、「バッキングコーラスをやってみないか?」というお誘いを受け、驚きました。「素人なのにこういう転がり方なんてあるんだろうか?本来なら順番があるんじゃないか。どこかの先生についたり、長くバンド経験を積んで知名度が上がっていき・・とか、自分は何もしていない・・・。」そう思いましたが、久保田さんは「それでもいいんだよ」と言って下さって、私をバッキングコーラスに使ってくださいました。ド素人をよく使ってくださったと思います。
"お勉強ができない、資格がない、何かを卒業し達成しましたといった証明書も無い、それは大きなコンプレックスでした"
―「素人」という感覚が、他の人から見るのと、浦嶋さんが思うのと、違いもあるんでしょうね。ご自分では素人と思われていても、周りから見たら、そうは見えなかったり。歌声もそうですし、外見のその雰囲気やオーラもそうですし、それらが伝わるんだと思います。
そういう側面もあったかもしれないですね。でも私にとって、お勉強ができない、資格がない、何かを卒業し、達成しましたといった証明書も無い、それは大きなコンプレックスでした。大人になっていく段階の中で、そういうものが無いとなかなか社会で認めてもらえないということに背を向け、音楽が自分の逃げ道だった訳です。音楽はあくまで自分を癒してくれ、自分を救ってくれる道ではあるけれど、食べさせてくれる道だとは思っていなかった。音楽は、「私がここに存在するということを知ってください」というアプローチでしかなかったので、音楽で自分の身を立てていくなんて思ってもいなかったんです。
そういうコンプレックスをずっと持ったまま来ているので、「素人」か「素人じゃない」と人がジャッジするとしても、「はったりを利かせることはできるけど、あくまでそれははったりですよ」という想いでしかないんです。その想いは今でもあまり変わりませんが、アマチュアとプロのレベルの違いというものは、やはり久保田さんによって、久保田さんのツアーに参加する中で教えてもらったんです。プロとアマチュアでは全然違うということを、ステージ上の久保田さんの背中を見て覚えていきました。そのことは私にとって、とても大きなことでした。
―その当時、今現在の浦嶋さんの立ち位置のような理想像はありましたか?
全く無かったですね。一日一日のことしか考えていませんでしたから。
"今いる自分の場所よりもう少し先まで見えてきた、更にもう少し先が見たい、その繰り返しでした"
―久保田さんのバックバンドをやっていく中で、こういう道に進みたいとか、そういった方向性などが徐々に出てきたんでしょうか?
やっぱり少しずつ広げていったというか、今いる自分の場所よりもう少し先まで見えてきた、更にもう少し先が見たい、その繰り返しでした。そういう状態が今もまだ続いている気がします。それを失くしたくないという想いが強かったですね。
学歴も何もない子が生きていくことって不安ばかりですよ。その不安の中で、毎日どうやって自分の存在価値を認めることができるか、それは「まだやっていてもいい」という環境であったり、自分へのオファーであったり、「自分を必要としてくれているから頑張ろう」と思えることによってなんです。それがありがたいことに今日まで続いたんです。
―それは、不安と闘っていく感じですか?
そうですね。
―そういった不安は、形は違えど多くの人が感じてることでしょうね。自分の存在価値であったり、そういったことと向き合っていくことは、なかなか難しいことですよね。
難しいですよ。相当飲んだくれました(笑)。アルバイトをクビになったり、バンドがうまくいかなかったり、解散したり、仲間と喧嘩したり・・・毎日いろんなことが起こり、そして歳もとっていく、そういう日々の状況の中で、虚しいような気持ちにもなっていきますよ。周りから、「はい、ここまででOKですよ。」とは誰も言ってくれませんし。20代の頃はまだ甘えがあって、まだまだいざとなったら親が救いの手を差し伸べてくれると思っているんですよね。
30代になってくると、それが無理だとわかる。親も歳をとっていくし。それでも30代なんて精神状態はまだまだ子供なんですよ。大人ぶってることを言ってはみるものの、やたらと不安は大きくて、どうしよう、どうしよう、と思うことばかりでした。「何とかやっていきたい」という想いと、「もうどうでもいいや」という諦めと、毎日がそれを繰り返してバランスを取ってきた感じで、そこにちょっとでも悪いことが重なればガタンと気持ちは落ち、ちょっと良いことが重なれば、「まだやれるかも!」と気持ちが上がる。その繰り返しです。全く安定してなかったですね。
"ここが一番下だから、ここからは上がるしかない"
―そういった不安定さと精神的な綱渡りの状況の中で、どこかで気持ちが晴れるポイントというのはあるんでしょうか?
とことんお酒を飲んで落ち込むと、次の日「人間失格」ってレッテルが体に貼られるわけですよ(笑)。二日酔いですごく辛いし、頭は痛いし、顔はぼろぼろ。そのうえ仕事をやる気も全くなくなる。どーんと落ち込むだけ落ち込んで、その時に「今、ここが一番下」と思うんです。ここが一番下だから、ここからは上がるしかないって。中途半端なところでうろうろとしている時は、無理矢理自分で落ちるんです。「ちょっと人間失格になっちゃおう、今夜!」と思って、自ら最低な人になっていくんですよ。その狭間の渦に巻き込まれると周りの人も大変な目に遭うんですけれど(笑)。そうやって落ちた反動で上がる、そんな風にして自分自身を上げてきた感じでした。(中編に続く)
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